プロジェクトストーリー

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一大プロジェクトへの参画、断るという選択肢はない!(厚板部 厚板第二課 課長 松本 大吾)

近畿日本鉄道が2014年春の開業を目指して、現在建設を進めている事業に「あべのハルカス」がある。それは、大阪阿倍野橋駅の上に、横浜ランドマークタワーの294メートルを抜いて、日本一の高さとなる、300メートルもの超高層ビルを建てようとするビッグプロジェクトだ。この事業は、大阪の起爆剤としての期待も寄せられているのだ。この一大プロジェクトに、阪和興業は手を挙げた。超高層ビルは、言ってみれば、鉄骨の中でも厚板の塊のようなもの。しかし、超高層ビルの仕事で、これほど大量の鉄骨を、しかも全量、阪和興業で納入したことは今までなかったのだ。

2年前のこと。阪和興業厚板部の松本は近鉄の会議室にいた。とある人脈からビジネスの話が具体化し、材料となるすべての鉄骨を調達できるかという打診を受けていたのだった。鉄の使用量5万トン。金額にしておよそ60億円。しかも、3ヶ月で調達するという条件だ。松本は経験したことのないスケールの大きさに身震いしていた。

怖いもの知らず。松本は当時のことをそう回想している。わからないから飛び込むことができたというのだ。近鉄での会議を終え、社に戻った松本は、役員を交えての緊急会議に臨んだ。この大プロジェクトを受けるか否かを話し合う会議だった。阪和興業の関係者が一堂に顔を合わせた。当然、慎重論が渦巻いた。

「リスクを検証して結論を出すべきだ」「60億円をどう捻出するのだ」「5万トンもの鉄骨をどこに保管するのだ」など、さまざまな意見が乱れ飛んだ。法務部の担当者からも、この事業に対する法的なリスクについて、あらゆる角度から指摘もあった。しかし、松本は「このプロジェクトは大阪を代表するものになる。シンボリックなタワーだ。子供に見せたい」と内心、熱い思いが沸き立っていたのだった。仕入メーカーをどこにするか。ゼネコンはどこに発注するか。難題が立ち塞がることは十分にわかっていた。しかし、是が非でも手がけたい。それは、会議に参加したメンバーの共通した思いでもあった。そして、「断るという選択肢はない」 会議はそう結論を出した。

このプロジェクトには、もう一つ条件があった。 それは、ある鉄鋼メーカーをメインとして参加させなければならないというものだ。当初、松本は、懇意にしていた鉄鋼メーカーをメインに位置づけて、一緒に汗を流し、喜びを分かち合いたいと考えていたのだが、この条件でそれは叶わぬ願いとなった。

ある日、松本は、長年に亘り信頼関係を築いてきた鉄鋼メーカーの担当者を訪れた。そして、すべてを正直に伝えた。シェアは落ちるが、一緒にこのプロジェクトをやってくれと。担当者は当然難色を示したが、最後は、松本の立場を理解して、首を縦にふってくれた。「会社としてはNOだが、個人的には納得している」という言葉をかけてくれた。この一件で、担当者が社内的に微妙な立場になることを、松本は分かっていた。当然だ。一大プロジェクトにおけるシェアが落ちるのだから。それでも、担当者は社内を説得してくれると言うのだ。目先のことを捨て、阪和興業との未来を大切にしようとする担当者の思いに、松本は熱いものがこみ上げてきた。

メインとなった鉄鋼メーカーも、部材加工する企業も、もちろん阪和興業も、これほどのプロジェクトを手がけた経験はない。ゼネコンにとっても決してたやすいプロジェクトではない。思ったものができない、設計どおりに加工がきかない。ないないづくしのプロジェクトは始まった。

そんな中、あの東日本大震災が起こった。代替のきかない部材を生産している鉄鋼メーカーの製鉄所も茨城にあって被災し、操業を停止するという事態に陥ってしまったのだ。建築業界では、建物の引渡し期限は絶対だ。「いつ出せるんだ」「船も出せない」一つの部材がないだけで、建物は建たないのである。これは、プロジェクトを襲ったトラブルのほんの一例にすぎない。徹夜が続いたことも、家族を犠牲にすることもあった。しかし、このプロジェクトに関わるすべての人の情熱が一つになって、幾多のトラブルを超えてきた。それほど、このプロジェクトに賭ける人々の思いは強かったのだ。

松本は、「サラリーマンの特権として、命までは取られないと思ってやってきた」と微笑みながら、この2年間を振り返る。そして、ビルも半分くらいまででき、工事も順調に推移している今、阪和興業として一つの役割を終えることができたと感じている。「時間と労力を精一杯費やしたという満足感があります。毎日、ビルができあがっていくのが見えるんです。それはもう楽しみですよ。素晴らしいメンバーと一緒に仕事ができたのも誇りです。みんな、本気で仕事に取り組んだ。真剣だった。非常に刺激的な時間でした」

“やらないという選択肢はない”というのは、このプロジェクトに限らず、松本のモットーとしているポリシーだ。できないというのは言い訳に過ぎない。どうすればできるのかを考えるべきだと力説する。「あべのハルカス」は、阪和興業の力量を広く知らしめたという意味でも価値のあるプロジェクトだった。業界でのポジションも確実に上がった。しかし、松本はそんな雑音に満足せず、既に新たな困難に、喜々として立ち向かっている。

新たな伝説の男となるために(特殊金属部 特殊金属第二課 丹 裕一郎)

丹は2008年の入社。就職活動においては売り手市場と位置づけられていた年である。今、思い返すと、“原料のリサイクルをやりたい”という漠然とした思いだけで将来を選択していたような気がする、と丹は語る。

入社後、現在の部署である特殊金属部に配属された。現在、担当している業務は、ステンレススクラップの仕入と販売。仕入先はトラック1台でやっているような小規模の問屋から海外大手ディーラーまで大小さまざま。販売先も多岐にわたる。そこで付き合う人たちも実に多彩。例えば、ステンレススクラップは、投機マネーによって価格が乱高下する相場商品だが、海千山千のオーナー社長などは、相手を会社の代表としてしかみないから、年齢や役職に関係なく、即決を求めてくる。したがって、交渉の時などはいつも緊張のしっぱなし。何しろ、交渉途中で「持ち帰ります」と言った矢先に相場が変動して、それまでの交渉が無駄になってしまうことも珍しくない。たとえ億単位の商談でも、4年目の丹が即決しなければならない。これはしびれますよ!と丹は言う。この規模感、スピード感が、たまらない。入社の動機はあいまいだったというが、4年経とうとしている今、丹の目に迷いはない。

東日本大震災によって、原発が壊滅的な打撃を受けた。このニュースは日本国内にとどまらず、世界中に衝撃を与えたが、丹が取り扱っているステンレススクラップにも大きな影響が及んだ。仕入先も販売先も、放射線の検知器で商品を調査しはじめた。震災直後には関東中の検知器が鳴り出したとまでささやかれたほどだ。ちょうどその頃、丹が商談をまとめた荷がフェリーで販売先に向かっていた。

突然、販売先から丹に連絡が入った。「この荷は受け取れない、契約をキャンセルする。」というのだ。すでに出荷済みで、仕入先との契約は終わっている。返品を受けると莫大なコストがかかる。丹はどうしたものかと思案した。関東に保管していた商品に、放射線が福島から風に流され、さらに雨によって付着した可能性は十分考えられる。もしも、大量の放射線が付着していたら、信用問題にも発展しかねない。丹は、何はさておき、まずは実態解明が先と考え、直接現地へ赴き、販売先の担当者の目の前でガイガーカウンター(放射線量計測器)による綿密な調査を行った。結果、懸念していた放射線は検出されなかった。丹は問題がないことが証明されたことに、とにかく胸をなでおろした。商品は契約通り引き取ってもらえたのは言うまでもない。

丹には、忘れられない仕入先がある。そこは、先輩社員が開拓した顧客だったが、丹が入社2年目のときから商談をするようになった。オーナーが、それこそトラック一台から身を起こし、一代で数千トンを取り扱うまでに成長させた企業だった。今では、ステンレススクラップの集荷販売における、自他共に認める関西ナンバー1企業だ。ご多分にもれず、このオーナーの交渉は度を越した激しさで、時には「アホ!ボケ!カス!」という言葉も飛び出すほど。漠然とした理由で商社に入ったことを後悔したのはこの頃ですね、と丹は笑う。

そんなオーナーからある日、部長宛に「すぐ来てくれ!」と電話が入った。またクレームでも起こったのかな、と後で恐る恐る話を聞いてみると、なんと!会社引継ぎの話だったという。「私も高齢になった。病気もある。跡取りもいない。そこで相談だが、阪和さんにウチの商権と得意先を引き継いでもらえないだろうか」ということらしい。部長も驚いただろうが、丹も耳を疑った。同時に、そこまで信頼されていたのかと、我ながら誇らしく思った。オーナーに認められたことを、素直にうれしいと感じた。阪和興業という看板はあるにしろ、何を言われようとみんなで歯を食いしばって頑張ってきた。そんな阪和だからこそ、真っ先に引き継ぎの相談をされたのだろう。丹はこの一件から、自信のようなものを感じていた。同時に、オーナーとの思い出をたどりながら、最後まで信念を曲げなかったオーナーの美学を学んだような気がした。

その後、この企業は従業員も含めて阪和に引き継がれ、今、阪和興業の子会社として新しい歴史を歩み始めている。

スクラップという商品の特性から、クレームが出てしまうケースも多い。不純物が混ざっているなど、大きなクレームになると、億単位の損失になる可能性もある。だから、クレーム処理はもっとも重要な業務の一つだ。

10月、丹は韓国へ飛んだ。品質に問題のある韓国のスクラップ数百トンの検品をするためだ。 同時に現地の工場がスクラップの日本向輸出に適しているかどうかを視察することも大きな目的の一つだ。 現地では、丸二日間、工場の中に缶詰にされ、そこの担当者と共に過ごした。暇な時間は現場の人間といろいろな話をし、彼らの行動を目で追った。そこから、さまざまなものが見えてきたと丹は言う。クレームの原因となる理由の一端も垣間見えた。そこで、担当者にその原因を指摘して改善をお願いすると、利害が相反することもあって、すんなりとは受け入れてくれない。当然、お互いの意見がぶつかる。しかし、いろいろ衝突はあったものの、最後は相手が理解してくれて何とか合意することができた。その担当者とは、その後も良好な関係が続いているが、クレームも、うまく解決できれば、関係性が深まるということを身をもって経験した出張だった。

ステンレススクラップの業界には、伝説といわれる人物が存在する。阪和興業の中にも、業界に名前が知れ渡っている伝説的な先輩がいる。丹には、今後10年以内に、そうした伝説的な人物になるという野望がある。マーケットの中心的な存在になることで、情報も人も集まってくる。その力をバックボーンに、顧客とのwin-winの関係をより広め、深めていきたいという強い思いがあるからだ。

常に顧客満足度の最大化を目指す一方、丹は業界がもつスクラップというダーティなイメージを払拭することも視野に入れている。ステンレススクラップは、リサイクル率100%という国際流通商品。資源の再利用という立派なクリーンな商品である。そうした特性をアピールしていくことも今後は必要だと考えている。資源の乏しい日本の製造業において欠かせない安定供給を担うという誇りもある。丹は今、商品としてのスクラップだけでなく、資源保護や安定供給に加えてイメージチェインジの面からもスクラップを捉え、業界の存在意義を考えながら、日々の業務と向き合っている。伝説は案外、そんなところから生まれてくる、と信じている。

「業界に松木あり!」現場で鍛えたプロ魂。(食品第二部 食品第四課 松木 光治)

阪和興業の食品部門は日本人の食生活になじみ深い水産物を中心に扱っている。 扱い商品の多くはトップレベルの輸入シェアを誇り、いずれの商材も営業担当者の力量が問われる、いわゆるプロの世界だ。新入社員も、早くプロの目を養うため、入社早々長期海外出張という、いささか荒っぽい方法で育成される。松木の場合も、入社後1カ月でカナダの東海岸への出張命令が下った。意気揚々と現場に入り込んだものの、待っていたのははるかに厳しい現実だった。

松木が食品部を希望したのは、入社後すぐに海外に行けると聞いたからだった。期待通り1年目の5月にはカナダのカニの現場で1ヶ月、それが終わると、次はアラスカでサケの漁船に同乗したり、加工場での作業を体験したりした。商社=海外という漠然としたイメージを抱いていた松木にとって、自分の甘さに気づくのに時間はかからなかった。まず、魚の良し悪しの見分け方や商品知識などを身につけるために元漁師の人(テクニシャンと呼ばれる)の指導下におかれる。彼らは、総じて気性が荒く、口より先に手が出るようなタイプ。それでも、覚えることは山ほどあり、弱音は吐けない。「毎日はりついてバカにされながら必死に教えを請いました」と松木は言う。しかし、こうして現場で培った商品知識やサケの見分け方、現地の人脈などが、お客様に説明する際の自信になり、後々大きなチャンスを手に入れることにもつながった。

7月には日本に帰国し、さて、次は何を?と思っていたところ、サケを担当しろと言われた松木。通常1~2年はいろいろな商材を体験するのが普通だが、このときはたまたま適任者がいなかったため、松木に白羽の矢が立った。正直、サケに関しては少し自信みたいなものも出来ていたので、この幸運を神に感謝したいぐらいだった。

サケのチームは課長と松木の2人だけだったため、日本に戻ったときには即戦力としての働きを期待されていた。こうして松木がサケの担当となった直後、課長が海外出張に出かけたことがあった。松木は「留守の間はお前に任せた」という課長の言葉を真に受け、在庫のサケを売りまくった。当時の相場なら確実に利益が出ると踏んでの売りだったが、いざ売りに出すと、これが面白いように売れた。課長が出張から戻った日「これだけ売れました!」と自信満々で報告した松木を待っていたのは、これまでにない叱責。最初は何で叱られるのか、まるで見当がつかなかったが、よく聞いてみると、「天然もののサケは1年に1度しか仕入れるチャンスがない。今年の状況を考えれば、先々相場が上がるのは火を見るより明らかなのに、いま見境なく売りをかけるのはお人よしの見本のようなものだ。次の仕入れまでどうするんだ!」と。ほめられるものと思っていた松木だったが、普段は温和な課長から、こんこんと説教されて、商売の難しさを痛感することになった。 かろうじて利益は出たものの、知識がないことの怖さを思い知った。

1年目には胃が痛くなるような場面もあった。できなくて悔しい思いもした。けれど、2年目の後半くらいから、ある程度仕事を任されるようになり、実績を積んで自信もついていった。きっかけを与えてくれたのは、阪和とA社とから半分ずつ仕入れていた、ある顧客企業だ。松木が足しげく通ううちに、阪和の扱いが6になり、7となって、徐々に増えていった。松木の熱意がお客様に通じたのだ。そういうお客様が他にも少しずつ増えて、いつしか「松木だから買う」と言われるようになっていた。

阪和は大連(中国)のシーフードショーに毎年出展しているが、松木が入社3年目のときに手伝い要員として同行したところ、たまたまサケが欲しいというお客様が現れた。サケなら松木だ、ということで応対を任されたが、そのお客様のオーダーは少々変わっていた。日本の秋鮭の頭の軟骨には、美容にいいエキスが豊富に含まれているらしく、サケの頭が欲しいというのだ。頭付のサケは商品として昔からあるが、頭だけくれというのは聞いたことがない。誰も経験がなく、リスクは高いが、むしろ松木は闘志が湧くのを感じていた。問題は、もともとサケの頭は廃棄していたということ。どの工場に交渉しても「他の部位の加工に忙しく、頭を凍結する暇はない」と言われてしまう。単価は重さで決まるため、お客様にとっては余分な身がないほうがいい。欲しいのは軟骨だけだが、切り落とし方も工場によってさまざまで、場合によっては従来と方法を変えてもらわなくてはならない。お客様の望む形で供給することの難しさに直面しながらも松木は粘った。人脈をたどって交渉し、幸運にも、何とか北海道と三陸の2社から引き受けても良いという工場を見つけることができた。「数量は少ないけれど新しい仕事をつくったという意味で充実感は大きかった」と松木は語る。現在は「こういう商売をはじめたので、サケの頭をください」と日本の加工工場に広めているところ。商売として大きく育つかもしれない、と松木の期待は膨らむ。

築地の朝は早い。阪和の始業時間は朝8:45だが、松木はその2時間近く前に築地市場に顔を出すのを日課にしている。市場がひと段落つくのがその頃だからだ。そんな時に顔を出すと、相手も「朝早いな」「元気やな」と声をかけてくれるのだ。そこでの会話が商いにつながることも少なくない。もちろん松木の頭には、阪和にいま在庫がどのくらいあり、先々、どのサイズ、どの種類のサケが売れそうだという予測がインプット済みだ。

例えば「アメリカ、ブラジルなどの海外の買いが強くなっているので、先行きの相場は上がる可能性が高い。今が買いのチャンスですよ!」などとアドバイスをするのだが、そうは言っても予測は予測。結局は信頼関係だと松木は言う。嘘をついたり、ごまかしたりしては、長い商売はできない。目先の利益を追うより、お客様のことを考え、薄利でも量で稼げばいいと割り切って仕事を楽しんでいる。課長からは「在庫がありません」というのは営業マンの恥と言われている。仮に在庫を切らしていても、次の仕事につなげるためには、競合に頭を下げたりしてでも何とかして手配するのが営業の仕事。その面でも人脈は大切。松木自身いつまでサケを担当するかは分からない。しかし、業界でも広く名を知られている課長のように、当面の目標として、取扱量はもちろん知識・情報の面でも、「業界に松木あり!」と言われるような営業マンを目指して、日々汗を流している。

果敢な挑戦が、新規商材開拓の扉をこじ開けた。(燃料化成品部 燃料課 江波戸 秀彦)

名古屋支社燃料化成品課に所属していた当時、江波戸は担当エリアの新規開拓に奔走していた。ガソリン、軽油、重油など、取り扱っているのは、石油製品。まずは、自分の扱い数量を2倍に増やそうと駆けずり回った。中部地区は、人間性が問われるという土地柄、まず、ターゲットを絞り込み、ここと決めると、毎日のように顔を出した。商売に直結しなくてもいい、とにかく顔を覚えてもらい、話をして自分を売り込むことに注力した。そうした努力が実り、江波戸は目標としていた数字を達成した。

「しかし、これで満足していいのか」。江波戸は自問自答した。「オレが商社を志望したのは、日本のために働きたいと考えたからだ。もっと大きな仕事がしたい」。目標達成の安堵と同時に、入社当時の志が、再びアタマをもたげてきた。そんな時だった、人事部への異動辞令が届いたのは。そして、その志を封印したまま人事部での3年間が過ぎ、再び大阪燃料課への異動を命じられた。江波戸はかねてより暖めていたその思いを今度は実行に移すべく行動を開始した。それは、今まで阪和が扱ったことのない新規商材の開拓だった。

アスファルトと言えば、道路用のアスファルトをイメージする人がほとんどだろう。江波戸が商売にしようとしたのは、ブロンアスファルトと呼ばれる防水用途として橋梁などの公共工事や屋根の材料として使用される商品だ。阪和にとって全く未知の商品だが、日本の国力の衰退を目の当たりにするかのように、日本国内の需要はここ10年減少し続けており、それに合わせてサプライヤーも年々減ってきていた。その結果、一時的に供給が追いつかず、需要が供給を上回る状態になってしまっていた。そんな状況にも関わらず、東日本大震災の復興を見据えて、更に需要は増加すると予測されている。この需給のアンバランスは更に激しくなっていくであろう。これはチャンス!絶対売れるという確信を持った。案の定、このような状況下で江波戸が燃料を供給している顧客が危機意識を強めていた。供給が途切れてしまうと、顧客は製品を製造できず困窮してしまう。その先には多くの人々が商品を待っており、その人々も困窮してしまう。こうして、「日本の顧客のために」江波戸の挑戦が始まった。

「初めての商売は自分自身の思いが無ければ達成できないでしょう。自分自身に打ち勝つことで視野は広がっていくもの。自分の限界を感じたらその商売はそれまでです。」未経験の商材を相手に数ヶ月は格闘の日々だった。江波戸にとって何のゆかりもない企業を訪問し、頭を下げて情報をもらい、ブロンアスファルトとは何たるか、これまでどのようなマーケットだったか、商売の特性はどのようなものか…様々なことを少しずつ吸収していった。

需要過多のマーケットであるため、海外のサプライヤーに目を向け、手を組む海外企業を探した。江波戸は商売では海外未経験であったが、とにかく行動するという信念のもと、海外事務所のルートを使って、早期に海外メーカーを訪問し、集めた情報をもとに交渉にあたった。「アスファルトは規格があり、その数値をもとに需要家は購入します。しかしながら、数値は全く同じでも実際の商品としては全然違うんです。」海外メーカーに依頼し日本仕様にしてもらった商品も、実際、工事現場で使用してみると、べとついて足跡がついてしまったり、割れやすかったり様々な問題が発生した。その都度、江波戸は顧客から詳細に情報を取り、海外メーカーに持ち込み、1日がかりで膝詰め談判を行った。メーカーの工場を見せてもらうことで一連の流れを把握し、行程で改善できる点がないか確認したこともあった。既存の商売をやりながら、新規商材を扱うことの物理的な難しさはあったが、自分自身との戦いを念頭に必死にもがき続けた。

「リスクを取ってもこの商売はやる。その場で決められる判断力が重要だ。」部長から言われた言葉が江波戸の頭にこびりついている。多くのサラリーマンは会社に持ち帰り、上司の判断を仰いでから決定する。「阪和では自分なりの方針を持ち、スピード感を持って判断することが要求されます。非常にやりがいはありますが、反面、責任の重さを感じます。」決して自分勝手に事を成す訳ではなく、予測される問題点を事前に上司に報告しておき、その範囲内であれば、その場で決定する判断力が必要なのだ。

これまで、海外メーカーは国内外問わず、品質も物流も均一の方法でしか対応していなかった。日本の状況を逐一伝え、「HANWAの情報は信用できます。」とのコメントをもらい、日本仕様の商品対応、コストメリットを追求した物流網構築を検討してもらうことができた。日本の伝統・文化を理解してもらい、言い換えれば阪和=日本という認識を得られたことに、江波戸は体の中から、アドレナリンがあふれてくるような感覚を覚えた。

2011年秋、顧客仕様、言い換えれば、阪和仕様の商品が顧客に納入された。江波戸の果敢なチャレンジから始まった新商品への参入が、実を結んだのである。「海外メーカーに自社の要望を理解してもらい、希望に近い形の商品にしていただいたことに本当に感謝しています。」江波戸は、顧客のその言葉を思い返すたび、阪和興業の営業としての喜びを噛みしめている。「たとえば大きなダムを作るといった国家的な事業・大規模な投資事業は、大手総合商社の役割でしょう。僕らは一件一件の顧客のニーズを丹念に掘り起こして、小さなダムかもしれないが、そのニーズに最もマッチするような事業をやっていく。今回の商売もその一例です。そして、この経験やノウハウを今後に活かしていかなければならない、そう思っています。」

江波戸の目は今、海外へと向けられている。今回の商売で、阪和独自仕様の商品を手に入れた。国内外共ギャップはふんだんにある。今回のノウハウを阪和興業のアドバンテージとして、新たな商売に生かしていく。それが、会社のため、社会のため、ひいては日本のために働くという信念をカタチにすることだと、江波戸は信じている。

一商入魂